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「Father」を観た
Amazonプライムにて。
この映画を観た人の半分はこの物語、その背景に”心当たり”がある。また半分の人はレクター博士を思い起こし、半分の人は現実はこんなもんじゃないぜ所詮は映画だとかぶりを振り、半分の俺は自分にも酷い老後が待っていると確信をよりいっそう強もうだめだああああああああああ。
ああああ。
この作品は映画的な手法で、おとんの記憶が混濁してコミュニケーションが瓦解していく様をうまく表現している。ファンタジーともドキュメントとも違う妙がある。「ねじ式」とまでは言えないだろうけど、なんかこう。だれだって自分の認識のほうが間違っていると認める事は難しい。難しいというか、そういう症状に陥った自覚を得るまでは疑いもしない。ここをお読みになっているあなたのお名前は。家族は。お住まいは。イシャ?何のことです。ほとんどの方が澱みなく正答できる。あなたの回答を受けて、唐突に誰かが「貴方の認知に問題があります」と指摘してきたら受け入れるだろうか。やがて老いたらとかではなく、今日、明日の話で。この映画と同じ事が起こったら、何のドッキリだ子供だましか底辺youtuberかfuck youと憤るかもしれない。
アンソニーは冒頭から一人でやっていけると強弁する。これは実際には一人に不安が出ている人の強がりじゃないかな。自分に周りの心配が寄せられているのを感じ取り、またある程度の”症状”に自覚がある。そういう自覚が出てきたら、早めに何か準備しておくものなのかね?準備したとて後から自分で納得できるものか、果たしてわからない。あしたから宜しく、っつって違う人が来るんだもんなあ。
ま…生きているうちにお別れするというのが現世の習わしでありますか。日本の話だと、死んでからの諸々手続きがクッソ面倒なので生きているうちにどれだけ済ませるかがキモらしいです。故人が使ってたサブスク系のサービスとかどうやって解約するか把握している人なんていないよ。「死人に口なし」なんて怖い言葉がありますが、生きているだけではどうにもままならん、というのが本作の内容だと思う。生きているうち、では遅すぎる。始末をせねばならんのです、今日、明日の話で。
いろいろ考えねばならんのですね。
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「めし」を観た
カレーは飲み物、めしは観るもの。
本作は林芙美子の小説を映画化した1951年の作品。とwikipediaに書いてあるが、タイトル以外に興味を惹かれた点はないのでとりま見てみよう。結婚してしばし経ち、ちょっと気まずくなった夫婦があれこれして仲直りするお話。雨降って地固まる。
映画の内容はなんとも言い難いけど、あらすじ読んだらその通りというか。本作は作中設定どころか、リアルライフでもこの5~6年前には戦争してたわけで。黒沢作品もそうだけど、戦後数年の作品を観るとどうも自分は「戦争で何もかもひっくり返ってなくなった」みたいな印象を強く持ちすぎているんじゃないかと思ってしまう。文明が滅んだわけじゃあるまいし、戦争前後に当然文化の繋がりがあるという当たり前のことを、忘れてしまう。戦中も、貧しくとも普通の暮らしだってあったに違いないのだし、妻としての人生とは?なんてテーゼもあったに違いないんですわ。たぶんね。
やはり作中の風景が面白い。台所にはかまど?ガスコンロが最新鋭の設備として広告に出てくるのが1951年ごろらしい。でもやかんがガスコンロっぽいものに乗ってるように見えるなあ。電球は傘のところのスイッチを捻って点ける。これも祖父母の家にあったような…。キャバレーなんてものに人が集まってて、売り上げはそろばん弾いて帳簿に記入、洗濯板でがしがし洗って。それでも「プレゼント」なんて言葉がセリフに普通に出てくる。夫人がはいてる靴は、雪駄っていうのか?人々も、大して今と変わらないじゃないか。作中にスマホを放り込んでも、そんな違和感ないのではないか。
物静かで頑固なおやじが、卓に着き、「めし」と呟く。奥方が食事の用意をして、家族が集まり食事が始まる。そういう景色は自分の記憶にある。実体験だか、テレビでみたんだかわからないが、登場人物は誰でもよい。夫と夫人だ。何だよ偉そうに、って思う人もいるだろう。自分も子供の頃はそうだった。カーチャンが忙しそうにしているのに父親はどっかと座って「めし」だなんて横柄な。いやいやそれは違う。実際、家族を食わせるために苦労している父はとても偉いのであります。
家族とか家庭のありようが変わりゆく21世紀ですが、どのみち一人では暮らしていけません。習慣もまたゆるゆると変わりゆくと存じますが、どこかしらで”習慣”の枠に嵌っていくのも人生でしょう。いびつになった枠との軋轢を滑らかにするのも、結局はその人の腕前なのではないかと、思うのです。
物語の感想がないな…まあいいや。めしにしましょう。