• どくしょかんそうぶん

    「赤めだか」を読んだ

    落語立川流。

    落語家の組織には「落語協会」と「落語芸術協会」がある。そんな事実も、落語立川流設立の経緯を調べるまでは知らなかったと思う。ただ、それを知ったのは本書を読むにあたってではなく、だいぶ前ではあった。今回調べなおしてもっとあると知った。噺家のユニフォームあって所属によって違うわけじゃないからな、落語を見ても聞いてもそんなの知る由もないんですわ。もちろん伝統芸能に限らず、長く続く組織に分派が出来ていくというのは自然な事なんだろうか。例えば競技麻雀のプロ団体もそうだし、格闘技なんかもそうなんだろう。ボクシングのチャンピオンって何人いるんだ?

    落語立川流!

    立川談志が組織から飛び出て立ち上げた団体という事だ。つまりは異端、オーソドックスではない一派なのだろうか?噺家稼業の実情なんて知る由もないが、なんせ旗揚げしたのが「あの」立川談志である。これはそうとうに過激派に違いないぞ!と目論んだが、本書を読んでみるとーーー。

    なお噺家の団体事情はこちらにくわしい

    https://rakugotei.com/rakugorekisi

    「あの」などと言っているが、率直に申し上げて「立川談志が落語家」という印象が薄かったのだ、以前は。立川談志とは、テレビでたまに見かける頑固そうな爺であった。あとサメ退治の騒動も記憶にある。談志がテレビで落語やってるのは見た事ないんだもの。自分と同じく1970年代生まれだと、テレビで見た落語家と言えば笑点の面々はもとより、桂文珍、桂三枝あたりではないか?あと春風亭小朝が時代劇出てなかった?志の輔とか円楽がテレビCMやってたかな。談志の落語を見る機会は、その訃報を知ってからやってきた。(おそらく)amazonプライムだった。そうそう、ここ二年ぐらいは、竹書房が高座の様子をyoutubeにアップしている。無料で見れるぶんでも、かなりのボリュームがあって素晴らしい。

    https://www.youtube.com/@by7350

    「その」談志の弟子である立川談春による、主に修業時代のエッセイとなる。本書は雑誌連載時のもともとのタイトルが「談春のセイシュン」となっていたらしい。弟子と師匠の物語ということで、その師匠である立川談志という人物のイメージを多少なりとも掴んでいないと、本書の面白みが少し薄れてしまうかもしれない。本書の連載は2005~2007年であったことから、2011年の談志の死については何も書かれていない。立川談春の筆は評判が高かったようで、本書はなんとか賞を受賞している。確かにすごく面白い。「あの」立川談志の弟子として過ごした修業時代のエピソードは実に詳細に書かれていて、情緒に溢れ、文学っぽさがある。文学ぽさってのは自分が勝手に感じただけで何と説明しようもないんだけど。

    勝手に感じただけで言えば、現代っぽさも覚える。「〇〇が残したとされる名言」みたいなものインターネット界隈で目にする機会があるけど、そういうものの原典は、だいたい過去に出版された書籍だ。談志の語る「嫉妬とは何か」「馬鹿とは何か」という、どこかで見た事があるものが本書にも収められていた。こんな事例は本書に限った事ではなく、調べればいくつも見つかると思う。例えば流行り歌がカバーだと知った時みたいな心持ち。「World in Union」とか。

    ここまで談志談志談志談志談志談志談志談志談志談志談志ってばかり書いているけど、これは立川談春の著だ。”修行”も進んで一人前の噺家として羽ばたく頃合い、家元の影は少し形を変える。今までは師匠、その言葉通り通りの師匠だったんだけど、どこか…上客といった印象になった。「修行は不条理に耐える事」とまで言い切る師匠の言う通りにして、魚市場で修行までしてきた。それを自分の提案、芸、言葉で納得させる必要が出てくる。しかし本書で談春は以下のように書いている。

    談春(オレ)は、覚悟だの、けじめだの、一丁前のつもりで独り思い込んでいたが、談春の想いはそんなものじゃなかったんだ。子供が母親に向かって駄々をこねるように談志に、愛してくれ、みつめてくれと泣きわめいて甘ったれているに過ぎなかったんだ。

    談志は弟子入りを志願した談春に、弟子入りの条件として親の同意と立川談志の面前への同席を提示した。弟子入り、いやいや弟子受け取り披露の席だ。「これより談志が親御を襲名いたします」実際は談春の親には同意を得られなかった。談春は代わりに住み込みの新聞配達をして自分の生計を賄うと談志に申し出て、受け入れられた。こんな世界の「あの」師匠のところへ、高校を退学して17歳が一人、体一つ飛び込もうってんだから、親の同意が必要というのが当人から見れば一番の不条理だったのかもしれない。「どうぞどうぞ😊」ってわけにはいかねえことは容易に想像がつく。しかしそこさえ乗り越えちゃえばね?

    本書によれば、立川流には弟子の修業過程、一人前と認められるまでにはちゃんとルールがあった。いわゆる前座→二つ目→真打への昇級過程とでも言えば良いのか。最終的には談志が首を縦に振らないことにはどうにもならねえことは容易に想像がつく、ものの、これは落語の世界のためのセーフガードだったのかもしれない。これを不条理とは…うーん。そこさえ乗り越えちゃ…うーーーん。

    談志が亡くなって十年以上になる。落語立川流は談志亡き後も運営は続いており、弟子があり、二つ目だ真打だお披露目だという話題も見つかる。何かしら基準はあるんだろう。談志の墓の前でサイコロ振って決めるなんてのはどうだ。談志が言えば肝を冷やすヤツがいるかもしれないが、志の輔が言っても誰も本気で受け取らないだろうな~。あるいは親の同意だったりしてな🤣🤣🤣いやいや、他の真打の兄さんは家族も同然でやすから。

    じゃあ談志を名乗る基準もどこかにあるのか?「あの」立川談志も七代目だとか五代目だとか諸説あるらしい。次の談志はだれだ…?このまま空位のままか。立川流なんだから、やはり談志を名乗るにあたり両親の同意が必要なんだろう。しかしもう故人のケースも多い筈だ。この際、国民の同意に委ねてはどうでしょうか。衆議院も参議院も選挙が近いことですし。

    この選挙で大いに活躍した噺家が後の「立川談合」となるのですがそれはまた別のお話。

    -6点。

  • えさのじかんだ

    めし短観2024年4月:純カレー

    カレーの味見ってしたことありますか?

    ギャバンのカレー粉、号して「純カレー」と。コショウと同じサイズ感だと思ったが、現物を手にしたらその5倍ぐらいの大きさがあってやや狼狽えた。大丈夫かあ?このカレー粉は、ぺろりと舐めると塩味を感じない。カレー粉って本来そういうものなのだろうか。普段は食材に火が通ったらジャワカレーのルーを放り込むだけなので、塩加減を調整してカレーを作るということが新鮮だった。調整っていうても、塩の分量だって適当だが、自分でやってみると適量なのか入れ過ぎなのかどうかも判断できない。薄味は不味いだろうなあと、カレー粉と塩をボフボフ入れて作ってみるも…不味くはねえけど美味しくもねえな。ただ、塩分は市販のルーと比べたらかなり少ないと思われる。もともとルーを放り込んで作る自作カレーは、ねっちょりするぐらい濃いものを作る。おたまを傾けても早々零れ落ちない。それと比較すれば、今回作ったカレー粉バージョンは少なくとも食塩量の面では相当に健康的なんだろう。しかし、ストレートに言ってそこまで美味しくない、という状況。じゃあもうちょっと活用する方向で善処できるかしら?

    もっとヘビーな材料使えば美味いんだろうか。鶏むねじゃなく、もも肉。豚ロースブロック厚切りをドボドボ入れたりなんかしちゃったりして…。やめとくか。ここ最近は健康に気を遣う事が多くなり、その割には肥満なままですが、兎に角、作ったカレーはご飯とは一緒に食べない。粘性の高い煮物として頂く。そんなカレールーバージョンは野菜だけでも美味しく頂いていたけれども、あれが美味しいのはルー自体の阿呆みたいな塩分と小麦粉のうまみ?の賜物だのではないか。そんなことを考え始めるほどに、このカレー粉はうま味に乏しい。唐突に、茹でたマカロニにこのカレー粉をかけてみたが、粉っぽいので美味しくなかった。

    世間はどうしておるのだと調べるとレシピも当り前ながらカレーばかりで、サイズ感間違えたうえに実は2つ買ったのをちょっと使い切れる気がしない。ネットで調べるとポップコーンとかスナック菓子の味変という使い方を示される。じゃあ、ふりかけも簡単にカレー味にできるな。混ぜるだけで、国宝「のりたま」とか「味道楽」がカレー風味になれば良いんだけど。

    インド人が店主の、なんでもカレー味の居酒屋って聞いたことがある。これか。

    おでんにホッケにポテトサラダ…。ほおほお、こうゆうものを提示されてはやってみるに決まってるじゃないですかー。以下実践。画像はありませんいつもの仕様です。実施時期は2月のなかごろ。寒い日にやりましてん。

    おでん:怖いので、普通に作って一人前取り分けてから純カレーを投入。もともとのおでんが自分が適当に白出汁で煮込んだだけという代物なので、カレー粉足しても美味しくもない。

    ポテトサラダ:これは手抜きで、お惣菜にまぶすだけ。美味しくはない。

    かっぱえびせん:カレー粉そのまま食ってるようなアレで美味しくはない。

    ここまで一個も美味しくないのでは?なんてこった。ここまでで1缶の半分も消費しておらず、さらにまるっと1缶あまっているので、正直困っております。ただの臭いのきつい刺激のある粉でしかない。もう少しネットに助けを情報を求めると、カレーではなく、カレー風味の何かを作るには使い勝手が良いらしいです。ところが、カレー風味にしたいものなんてなにも心当たりがない。調味料の置き換えと考えれば、回鍋肉をカレー味にすることも、麻婆豆腐も豚汁だってカレー風味で作ることはできるだろうさ。焼きそば?炒飯?でも、やってみたいと思いませんな。いや数行上でやっとるやないかい、それはその通り。んで美味しくはないといってるじゃないですか😡

    しょうがないからカレー作って消費するしか。味の調整だなんてやりたくないからカレールー放り込んで作るのだ。これは厄介ものを抱え込んでしまった。しかし見方を変えてみればどうだろう、思いついた。この粉をもとにしてカレールーを作ればいいのではないか。でも自分が作ったとて、既製品のカレールーよりより保存が効くわけもないし、実用性に乏しい。そもそも、どう作ればいいのかもわからん。美味くもないだろう。

    なお、本商品は小麦粉を使っていないものの、100gで404kcalあって、炭水化物も65gとなかなかヘビー。愛用のjavaカレー100g相当と比べると、カロリーは少々少ないが炭水化物は倍近い!?でも前述のとおり、減塩の効果は高そう。

    JAVAカレー

    https://housefoods.jp/products/catalog/pkg_1,089588.html?bk=cd_1,089588,curry,roux,java.html

    GABAN純カレーは公式な商品ページ見つからないんだが…。

    カレーについては以上です。元来ルーをぶち込めば味見もいらねえのよ。調子にのって粉に手を出したのは失敗でした!!

    もっちもちのカップ焼きそばという商品くったが、そんな意識するほどの違いがあったと思えず。カップ麺の類は普段より固めに調整して頂いている。熱湯3分のところを2分ぐらいで食べ始める感じ。みんなそうだよね?しかしずいぶんと特徴的な容器だけど、なんか意味あるのか。

    天下一品のカップ麺を食べた。おいしくない…。ラーメンに興味は薄いので、有名店とか行ったりしたことないです。だもんで、カップ麺とお店提供で比べる事もないですが、天下一品は食べた事あります。20年ぐらい前ですけどね。その時もこってりを食べた。しかしこのカップ麺はびっくりするほど美味しくない。今はお店でこれと同じ味が出てくるの?まさかね。やはりインスタントヌードルは「カップヌードル味噌」と「最強どん兵衛天蕎麦」が揺らぎない。

    美味しくないばかり言ってるなあ。

  • ふでのゆくまま

    箸を買い替えた。

    一人暮らしを始めてしばらくは割りばしだけで食事していた。その後、いわゆるマイ箸を買ったのはいつのことだろう。おそらくはそれが人生で初めて買った箸だった。今ではコンビニで弁当買った時にもらえる箸も、丸みのある竹の箸が殆どだと思う。当時はスカスカな感じの木材で、角ばっていたと記憶している。そんな割りばしは頼りなく、重いもの持ち上げると折れたりしてさあ。でも、しばらくはそれだけで済ませていた。

    今でもコンビニめしをまあまあ利用するので、毎回箸をもらっていると割りばしが増えていく。何も言わずに袋に入れてくれる店員も多いよね。外で食べてそのままゴミとして捨てるのではなく、家で使うことが殆ど。だから割りばしを一回で捨てるような事もなくて、何回か洗ったりして使うんだけど、体感で1週間ぐらいは余裕で使える。なんならもっといけるんだろうけど、燃えるゴミの日に目に着いたら捨ててる。これって意味のない消費、つまりは浪費をしているなあと思うので改めたい。店員さんに「お箸要りますか?」と聞かれれば断るのは容易だ。しかしこちらから箸を要らない主張するのは伝える間合いを測ってしまう。店員さんは余計なことをしているのではなく、当然のサービス業務なわけで。そこでセルフレジ。これなら勝手に袋に箸が入る事はない。しかしコンビニではセルフレジをやった事ないなあ。あれどうすんだろう。それに、例えば閑散とした店内で、店員もレジで俺が商品を持っていくのを待ってる、みたいな時に、スルーしてすぐ横のセルフレジへ歩むの気まずくないだろうか。その気まずさの懸念は手際よくお会計済ませることができるかという不安にある。2024年にもなってこれだよ…。

    スーパーのセルフレジと同じじゃないのか?としか思えないが、調べてみると例えばファミリーマートは実にやる気のない公式コンテンツで萎える。「e-taxで確定申告が簡単」みたいな実際利用した側から言わせれば納得のいかない説明がかくかくしかじか…ではなく、さらっと書いてある。これは不安を覚えるぞ。改善せんのかね。

    https://www.inq.family.co.jp/familymart/QA_Customer/web/knowledge538.html

    しかし2024年なので、ネット上には市民の手による情報があふれているのでありました。バーコードで商品管理している以上、どこでも必要な事は一緒だよな。ちょっと手順が違ったりするだけで。

    https://smakko-cashless.com/familymart-selfcheckout

    まあいつか試すとして。

    なんならレジすらない、店員もいない店舗もある。使ったこともその予定もない。利用には事前登録が必要だから、見かけてフラッと立ち寄ることもできないし、何度も利用するのでなければ事前登録なんてしない。何度も利用するかどうかは場所と品ぞろえ次第だが、その点は住まいの近くのコンビニ、スーパーに勝てないもんね。家で使うものだったら、ネットで買って届けてもらうのがさらに便利。「レジすらない、店員もいない店舗」だって、そのうち配送オプションが利用できたりするんじゃないの。

    そんな配送で大変お世話になっている運送業者に働き方改革がやってきた、ということらしい。少し前から世の中にインパクトが大きいであろう政策ということで、ニュースなんかでも取り上げられていたように思う…。当然のように最初はうまくいかないんだろうなあと思うが、実情は無いもわからん。街中のコンビニやスーパーの納入トラックは今まで通りに見かける。ネットでのお買い物が届くの遅くなる、ぐらいなら自分は全然かまわない。そもそも、翌日中に家まで届く、というサービスが異常だった。日付指定がちゃんと機能するなら、大体のものは一週間かかっても問題ない。もっと急ぐものがあったら、それは自分の足で買いに行くに決まってるんだ。箸とか。

    しかしね、運送業者全般の業務に影響があるなら、店舗までの商品の運送だけでなく、工場への資材の運送にも影響あるんじゃないか。そもそも生産が滞ってしまうなら、近場の商店へ足を運んでも売ってないかもしれない。ネットで買い物したときや、引っ越しの時にお世話になる、自宅の玄関に訪れる運送業者ばかりを思い浮かべてしまう。実際は、もっといろんな物が港から工場、工場から倉庫とそこかしこに運ばれているのでしょう。

    だから自分で作れるってのは凄く便利なことなんだなと思う。よーするにDIY。もっと現代っぽく言えば例えば3Dプリンタで実用品を製造して自分で使ってるなんて人も、結構いるんじゃないかなあ。箸とか。

    菜箸も買い換えた。シリコン菜箸の先が溶けるかなんかで、中の金属がむき出しになっていた。それに気づかず、フライパンの表面傷だらけになってもうた。まだ新しいのにクッソ悔しい。

  • ふでのゆくまま

    さくらを背負う人

    春でありますので、桜が咲いただの引っ越ししただのという話題を目にすることが多くなります。退職したというのも増えますね。退職エントリでよく見かけた例の中華料理店の画像、今では誰も使わなくなりました。店舗も確かだいぶ前に閉店。

    新人さんって、どこからそういう雰囲気出てるんだろう。新社会人とも言う。そっちのほうが使うか?スーパーに買い物行ったら、そんな人がいた。客観的に見ればただ若い人がスーツ姿でお買い物中であるだけなのに「おっ、新人さんだ」という気配を感じ取ってしまう。じゃあスーツ姿じゃなかったら、そんな気配を感じないのかと言われると、これが、本当に感じないような気がする。例えば大学生だって「この春から上京してきました!」という若者がめちゃくちゃ沢山いるはずなのに、ほとんどわからない。

    では、その新人気配とやらはスーツ姿から出ているのか?試しに先ほどの新人さんとそこらの人の服装と着せ替えをしてみればー…なんて想像していたら、その新人さんの様子が、風体が、瞼に沁みついてしまった。なにやってんだ。自分が良く行くスーパーだから、おそらくここ半年ぐらいのうちには、もう一度見かけるんじゃないだろうかと思う。あの人、その頃にもまだ新人っぽいのかなあ。

    どんな視点やねん。しかし実際には自分のほうが半年後には忘れているだろう。哀れなアラフィフ族でありんすね。もし、来週に見かけたら覚えているかもなあ。今後も定期的に見かけては「おっあの新人だ」と思い、やがては「おっ新人感がなくなった」と感慨深く見つめながら木綿豆腐を買う。

    何言ってんの。

    タケノコ水煮を買って、適当にスライス、キャベツと豚肉とで野菜炒めにして食べる。春っぽい食べ物はやはりこれ。実際いつでも買えるけどやっぱり春先はこれだ。しかし食べ方が雑だよなあ。もうちょっと和風の食べ方をするのが、礼節ってもんだろうか。次はこんにゃくと鰹節で煮ものにするか。来年の春に売られているのを見かけてもそんな予定は忘れているだろうけど、もし来週見かけたら覚えているかもな。

    葉っぱごと食べるのかどうか、というやり取りを眺めていて、桜餅と柏餅ってなんか違うんだっけと調べると、包んでいる葉っぱが桜と柏の違いだった。当り前すぎて草餅はえた。こいつらを両方買ってきて衣を交換してやりたいなどと企てるも、柏餅しか売ってない。後ほどコンビニで桜餅を見つけるも、葉っぱが無い。あれはしょっぱい葉っぱごと頂くものでしょう。考えてみれば柏餅だけでも買っておけばいいのにな。要領の悪さ。新人か。

    あとはやらせ要因の「サクラ」と「桜田門」(警視庁)を取り出して何か書くかとおもったけど、思いつかねえし、春の話で引っ張るには時間も待ってくれねえのであきらめた。きtgい(精神状態の安定を欠いた人)が増えるという風説には言及の予定なし。手の内を明かす素直さを新人さんに見習ってほしいが、残念こちらはやけくそとなっておりますぞ。

    春はやけくそ。やうやうほむらだちたるぢょうちょ、みずたまにはぜて、きちがいだちたるひとの、りひのほそくたなびきたる。

    ちりぬるを。

  • どくしょかんそうぶん,  ふでのゆくまま

    「たけくらべ」と「舞姫」読んだが

    樋口一葉の「たけくらべ」が青空文庫にあった。

    https://www.aozora.gr.jp/cards/000064/files/389_15297.html

    冒頭に目を通してみたが、こんな古文調?の文章だとは思ってなかったので面食らう。平家物語じゃねえんだからさ。なんかおかしいなと思って、読む前にいろいろ調べてみる。まず、太宰治とか芥川龍之介あたりと同じ、あの辺の時代の人だろうと思っていたが、実際は作品の発表時期が30~40年ぐらいずれている。芥川龍之介の「あばばばば」が1923年の作品だそうだ。また太宰治の「走れメロス」が1940年。いっぽうこの「たけくらべ」は1895年ですって。このたけくらべ、ぱっと見で採用されている単語がまるで芥川、太宰とまるで違うじゃないですか。自分の見識では「一緒の時代」で括ってよい程度の差なのか判断に迷うが、これだけ”文字”が違ったら別もんでよくない。

    たけくらべだけvsその他全部でくらべてもしかたないので調べるのはこの辺で一旦たなあげ。たけくらべ だけでくらべて こしくだけ たけやさおだけ よんでみるだけ。あっはい。で。上記のように作品について調べるついで、当時の出来事は何でしたかと漁ってみると文明開化があった。1870年ぐらいの出来事らしい。なんでも、1872年には鉄道が走ってるし、その後すぐに苗字を名乗れとかちょんまげやめろとかお触れが出ている。ちょうどそのころ生まれた一葉女史には影響は大きかったのかね。そもそも「女性が書いた」ってだけでも珍しい時代だったのかもしれない。大正デモクラシーもまだまだ先なのだ。それでも文章が芥川と比べてまるで違う。何があったかね。

    んで、「たけくらべ」が結構みじかいと気付いたのですね、青空文庫を開いているブラウザの、スクロールバーのサイズ感で。じゃあ拝読してみれば良いのはなし。2時間かからぬぐらいで拝読したのですが、あまり理解は追いつきませんでした。とりま実績解除ってことでよろしく。

    こういうのを教養って言うんでしょうか。作中、下駄の鼻緒が切れて弱っているところに、知人が通りかかり、俺の下駄はいてけって渡す。自分はこの場面が見事に漫画的表現で絵が浮かぶわけです。白土三平…ってカムイ伝しか知らんけど、ああいうの。横山光輝の三国志とか?そういう雰囲気の中で人物がやり取りをするような絵がうかぶ。だから、下駄をくれたのはやさしい呂布みたいな🐻男であって、下駄を受け取ったのは諸葛瑾みたいな書生ふうの…。でも、ちゃんと知識があると、もっと本物に近いというか、別の様子を思い浮かべるんだろうか。なんで太宰や芥川と文章が大きく違うのか、そんな理由も知っているのか。自分は「鼻緒が切れて弱っている」がどういうことなのあまりピンときてない。あの親指と人差し指の間の紐が切れたってことであってますか。

    えーと、流石に読みにくくて難儀しました。若者の群れが連れ立って喧嘩したり青春してたような話だった。んで女が拗ねた?恐ろしき理解度の低さ、これ教養って言うのでしょう。ぐぬぬ。

    では、この時代の他の作品も読んでみれば、ちょっとは腑に落ちる見識も得るかもしれない。じっさい一葉と面識があり、結核の治療も面倒見たという森鴎外。「舞姫」の発表年が1890年だったので、こっちはどういう文面かと探してみたら、これも短い。

    https://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/2078_15963.html

    読み終えまして。人の勧めるままに身の振り方を決めていたら、自分の子を宿した女を捨てることになった、みたいなことか。貴方仕事と私どっちを取るの?どうしても古文ジャンルの文章に近い印象がぬぐえない。源平のころから文明開化まで、文学ってなかったのか。そもそも小説ってジャンルが存在しないのか?自分の教養で、調べなくても江戸時代のものだろうと推測できる書籍って「奥の細道」と「五輪書」しか思いつかない。歌舞伎は都市部で人気だったと思うが、その台本?原作?みたいなもんが流通したりしなかったんだろうか。流通っていうてもな…活版印刷無いもんな。瓦版?

    あるいは…話し言葉まで含めて大きな変化があったの?話し言葉を文章にする発想がなかったのか?

    ここで「東海道中膝栗毛」の存在を思い出し、読んだことも一応はあることを思い出す。現代人に読みやすい表記に改められたものと記憶している。これはスラスラ読めた。wikipwdiaによれば1800年ごろの作品だ。どんな文体で書いてあったのか探れないだろうかと思ったが、青空文庫には無かったのであります。なんでもかんでも収録されるわけではないんだろうけど。

    文章にする言葉ってなんなのだろう。自分だって、日常話す言葉とこのブログで使っている言葉が完全に一致するわけはない。「話す」言葉なんだから、単語・表現の選択にはその話相手と、場の空気感みたいなものが如実に反映されている筈。手書きの日記は少々話し言葉っぽいかな。例えば「今日はしごとの出来栄えがうんこだったのでストレスマックスうんこうんこ」きょ、教養…。

    この時代の作家について参考文献。国会図書館なあ…。死ぬまでに一度は足を運んでみるかしら。

    https://www.ndl.go.jp/portrait/pickup/003

    あら?膝栗毛あるやん。

    https://dl.ndl.go.jp/pid/878435/1/2

    表紙は明治16年とあるように読める。1883年だ。たけくらべよりだいぶ古い。

    もしかしてたけくらべも舞姫も、こういう文体にしようってネタだったりしねえかな。現代でもムツカシイ言い回しや言葉を使う作品あると思うけど、そういう類の。

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    オチがよわい。トルチョック。