• ふでのゆくまま

    龍脈の瘤を

    通り道の飲み屋が突然休業してしまった。その店に入ったことはないのだが、そこそこ繁盛しており、洒落乙志向でもない、しかし下品でもない、実に雰囲気の良さそうな店。一人客も子供を連れた家族の姿も見られた。休業を告げる張り紙には「水道管が不慮の事故で破裂して、営業できる状態ではなくなってしまった」というなかなか強烈な理由が付されていた。通りから見た感じではハコが損壊したような様子もない。例えば地下の配管工事をしないと水が出ないといった実態だろうか、などと推測する。そら営業どころじゃないが、それにもまして一階のこの飲み屋の上は6階ほどの集合住宅でありますよ?ビルごと水が出ないなんてことになっていたら、住民も大変な思いをしていることでしょう。

    再開するお知らせに変わったのは梅雨に入ったころ。「駐車場の事故により水道管の破裂云々X月X日より再開します云々」と具体的な理由に変わっていた。確かに裏手には15分お幾らの、都内に良くある駐車場がある。ということはなんだろうか、たぶん駐車場から壁を破って店内に突撃でもしてきたのだろう。

    店は再開後も盛況。

    この都市の地下にはこれだけの人口を支える上下水道がある。東京に住んで20年以上、一度も大きなトラブルに見舞われたことはない。実に凄いことだと思う。

    東京の地下鉄を3Dの模型にしたやつ、一度見た時のインパクトが凄かった。地下鉄の車両ではなく、地下に張り巡らされた線路の模型だ。ジェットコースターのよう、というかそれ以上に複雑怪奇で不気味と言っても過言ではない。

    さすがに実物より上下軸を強調しているらしい。実際に地下鉄に乗ってるけど、こんな急な勾配を走ってるわけないものなwこの作品は「東京動脈」と名付けられている。毎朝、そこかしこから人々は動脈の中を中心部へ向かい、エネルギーを使い果たして送り返される。その経路、動脈に相応しいような。我々は血液か。混雑時の車両からぶわーーーって飛び出てくる人々の様子を思い起こすと正に、ですな。

    一方…上下水道の配管は住居ある処どこにでも届いているのだから、地下鉄よりももっともっと広大で複雑だろう。だろうけど、一つ素人なので疑問がある。高低差だ。動力を持った電車じゃねえんだから、勝手に坂を登りはしない。住宅で蛇口をひねれば水が噴き出すからには、どこかで圧力かかってる。

    血液である我々のおどおどした頼りない足取りにくらべりゃあ、いつでも天に還るが如くの圧に満ちている水道は龍脈であり天地そのものの漲りを奉じて…とか中学生っぽい格好いい事書こうとしたけど「あれ?下水道はどうなんだ」と考えるとイマイチなのでおしまい。

    水は人類の持つべきものとして一番に価値が高い筈…。その高さ故に過去の、現在の人々の努力工夫により、また地勢の事情によりこの国ではわりと容易に手に入ります。だからここ半世紀の産油国と同じぐらい強権をふるうことが将来あると思うんですよ。産水国。まあそうなるころにはお隣と戦争してまた勝ったの負けたののお話でしょうね。

    あるいは原油から水が生成されるかもしれませんし、水の要らない生き物になるかもしれません。木星の衛星あたりから取ってくるかもしれません。コチンコチンに凍って宇宙空間を運ばれてくる”水”を、銀の龍と呼ぶようになった、そういった昔話をしたいものです。

  • ふでのゆくまま

    夏爪

    足の小指の爪が裂けているのが治った。

    特に治療を受けたわけではないので、仔細は不明だが治った。爪を見下ろした時の、いわゆる肩の位置から、親指側:外側=8:2ぐらいに分割できる線で縦に割れてしまっていた。付け根のほうまでいくと根っこは同じである。途中から木の枝みたいに分かれていた。靴下を履くときなどたまに引っかかって捲れてしまい、あいててて、となるのでした。しかし歩くのに不自由するほどでもなく、ちょっと違和感程度のものなので特に対処もなく。その都度細いほう、外側の爪を根本の分岐点近くまで切って、捲れないようにするといった作業をここ数年。これがさっき見たら治っていた。ふつーの一枚の板となっていたのであります。

    …と思ったのだけど、よく見たらどうも割れた層よりも一枚下に層が形成されて伸びてきたように見える。即ち、8:2の8のほうが爪の上にうすーく載っているように見える。やや変色しているので僅か二層の河岸段丘と言った塩梅だ。怖いので変にいじらないようにしておくけども、もし二枚に分かれて今後も育つというのならば結構な面倒事になりはせんかと心配しております由。

    今年も夏が来たが、もう一年エアコンなしの夏を堪能してみたい。正直しんどかったが、具合を悪くするほどでもないもんだった。むしろこう、何か納涼の工夫でもしてみたいと。そういうのが却って手間もお足もかかるからこその近代社会なのですが、なかなかどうして人々の知恵もテクノロジーに負けておりませんことよ。

    まあそういう知恵とか道具もインターネットで調達してくんだけどな。

  • ふでのゆくまま

    昔の下書きを消化する

    思いがけない出来事に遭遇する、ということがあります。しかし人類に未来予知は能わず、ほとんどの事は思いがけません。結局は後で客観的に評価して、これは思いがけないものと言って問題ないか、みたいな検討を経て「いや吃驚した」だの「こんなことあり得るのか!」だの、色を足したり引いたりして認めてみたりするものです。

    「客観的」という言い回しの実質は風土とか慣習。ここ数年、夏には特に東京で度を過ぎた夕立が降るようになった。なるほどこの土地はそういう気候なのだなと納得され、なにかこう、洪水対策でもなされて、ああこれがこの土地に暮らす知恵なんですねー、なんて。住まいは夏を旨にはできるが水に流されるを旨にはできない。しかし多分、これは思いがけない出来事という範疇ではない。実効的な知恵があり、知恵能わぬ時の覚悟か諦念がある。

    まとまりのない事を書いていると落ち着きがなくなる。ティッシュを取ろうとしてひっかけ、麦茶をこぼした。

    このような場所に置いて、溢すとどうなるか、避けるにはどうするかの知恵がありながら、考えてみると、どうもこれは「思いがけない出来事」に含まれるようだ。知っていてもどうでも良いとそ知らぬふりをする。だって飲み物は手の届くところにないとねえ。そうよそうよ。見て見ぬフリをしてやがて迎えるささやかな未来のハプニングを、「思ってもいなかった」と宣い、嘘をつく。これはすでに見たことの筈だ。責任逃れ。そ、人類に未来予知は能わずとは、過失の無い事への主張であり業への抗弁である。

    我々は実は未来を知っている。踵を浮かすぐらいの背伸びで見えるものが、見なかったことにしてよいものかどうか。それを見えたというなら未来が。見えないというなら、それは思ってもいないことだ。未来は心のうちにある…。

    数年前。駅へ向かったら思いがけず、黒人の盲人が駅へはいり歩いていく所に出くわした。身なりは思い出せない。髪には白髪が目立ち、初老と言った感じである。映画「セブン」のモーガン・フリーマンを彷彿とさせる。ひとりで点字ブロック沿いにのろのろと歩いている。不思議な光景だった。なぜ一人なのか。ここいらに、あるいは東京にお住いの人物なのか。この国は長いのか。旅行なのか。

    偏見と言えばそれまでだが、一人で盲人が旅行などする筈もない。なればこの人物はどういう理由でひとり歩いているのか…。実は盲人という確証はなにもない。ただ、杖をついて歩みはゆっくりで、探るようにコココと杖で足元をなぞりながら進んでいる。日本の言葉はわかるんだろうか、点字ブロックって国外でも同じ意味なのだろうか、ほら手話って国ごとに違うらしいじゃないです?

    数秒。

    彼のプロフィールに思いを馳せていると、向かい側。駅の反対側の入り口から改札へ続く通路。同じく点字ブロックが続いているのだが、その上を女性がこちらへ向かって歩いてくる。その瞬間、映像美を売りにした映画のような写真が脳内にストックされた。このまま二人が歩めばぶつかる。しかしお互いにそろりそろりと歩いている。本当にぶつかってもどちらも怪我はないだろう。ま、大事にはなるまいと横目に、通勤の電車に乗らんと改札を抜けた。

    以上。おそらく二年ぐらい前の出来事。