ふでのゆくまま

昔の下書きを消化する

思いがけない出来事に遭遇する、ということがあります。しかし人類に未来予知は能わず、ほとんどの事は思いがけません。結局は後で客観的に評価して、これは思いがけないものと言って問題ないか、みたいな検討を経て「いや吃驚した」だの「こんなことあり得るのか!」だの、色を足したり引いたりして認めてみたりするものです。

「客観的」という言い回しの実質は風土とか慣習。ここ数年、夏には特に東京で度を過ぎた夕立が降るようになった。なるほどこの土地はそういう気候なのだなと納得され、なにかこう、洪水対策でもなされて、ああこれがこの土地に暮らす知恵なんですねー、なんて。住まいは夏を旨にはできるが水に流されるを旨にはできない。しかし多分、これは思いがけない出来事という範疇ではない。実効的な知恵があり、知恵能わぬ時の覚悟か諦念がある。

まとまりのない事を書いていると落ち着きがなくなる。ティッシュを取ろうとしてひっかけ、麦茶をこぼした。

このような場所に置いて、溢すとどうなるか、避けるにはどうするかの知恵がありながら、考えてみると、どうもこれは「思いがけない出来事」に含まれるようだ。知っていてもどうでも良いとそ知らぬふりをする。だって飲み物は手の届くところにないとねえ。そうよそうよ。見て見ぬフリをしてやがて迎えるささやかな未来のハプニングを、「思ってもいなかった」と宣い、嘘をつく。これはすでに見たことの筈だ。責任逃れ。そ、人類に未来予知は能わずとは、過失の無い事への主張であり業への抗弁である。

我々は実は未来を知っている。踵を浮かすぐらいの背伸びで見えるものが、見なかったことにしてよいものかどうか。それを見えたというなら未来が。見えないというなら、それは思ってもいないことだ。未来は心のうちにある…。

数年前。駅へ向かったら思いがけず、黒人の盲人が駅へはいり歩いていく所に出くわした。身なりは思い出せない。髪には白髪が目立ち、初老と言った感じである。映画「セブン」のモーガン・フリーマンを彷彿とさせる。ひとりで点字ブロック沿いにのろのろと歩いている。不思議な光景だった。なぜ一人なのか。ここいらに、あるいは東京にお住いの人物なのか。この国は長いのか。旅行なのか。

偏見と言えばそれまでだが、一人で盲人が旅行などする筈もない。なればこの人物はどういう理由でひとり歩いているのか…。実は盲人という確証はなにもない。ただ、杖をついて歩みはゆっくりで、探るようにコココと杖で足元をなぞりながら進んでいる。日本の言葉はわかるんだろうか、点字ブロックって国外でも同じ意味なのだろうか、ほら手話って国ごとに違うらしいじゃないです?

数秒。

彼のプロフィールに思いを馳せていると、向かい側。駅の反対側の入り口から改札へ続く通路。同じく点字ブロックが続いているのだが、その上を女性がこちらへ向かって歩いてくる。その瞬間、映像美を売りにした映画のような写真が脳内にストックされた。このまま二人が歩めばぶつかる。しかしお互いにそろりそろりと歩いている。本当にぶつかってもどちらも怪我はないだろう。ま、大事にはなるまいと横目に、通勤の電車に乗らんと改札を抜けた。

以上。おそらく二年ぐらい前の出来事。

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