ふでのゆくまま

ギリヤーク尼ヶ崎 公演を見てきた

2015年10月某日、東京は新宿でギリヤーク尼ヶ崎のパフォーマンスがあるらしいので、見に行ってみることにした。

特にチケットも予約もない、普段休日にはフリーマーケットなど行われている、ビルの隙間の広場にて行われる…とある。爽やかな秋晴れの昼下がり、現地へ向かうとすでに人だかり。近くでは見れそうにないので、ステージ(なのかどうかもわからないが)横手の階段の手すりで始まるのを待つ。90歳に近いという。どんなパフォーマンスなんだろうか。予告通りの時刻に、ややざわついた空気があり、「まってました!」などと掛け声がかかる。寄席じゃねーんだからと思ったけど、大道芸とはそういうものなのだろう。いや、良く分からないが。

見ると…観客の合間を縫ってよたよたと細身の老人がステージにあがる。彼がギリヤーク尼ヶ崎のようである…。全く以て普通のいでたちで、代理の人が中止でも伝えに来たのかと思ったほどで。彼はゆるゆると荷物の開梱を始めた。静かに見守る観客。演出なのかどうかもわからないので眺めるしかないのだが、流石に退屈だ。着替えが終わるころになると、ステージの前のほうに座っていた人がメイクを始めた。演出なのかどうかもわからないので。白塗りになり、準備もできたというところでステージ中央に立つギリヤーク。観客から拍手。

ここまで20分ぐらいかかった気がする。もう集中力がなくなってしまい、端的に言うと飽きた。そりゃそうだ。もう細かいところは覚えてないのだけど、演目の書いてある札を掲げて何事か叫ぶ。音楽が流れ、「念仏じょんがら」が始まる。踊ると言うよりは練り歩くという感じであるあたり、流石にもう年齢がキツイよなあと思ってしまう。いや、若いころからこういう演目なのかもしれないけど、着替えだって手が震えてしまってままならないのを数分前に見たばかりではより一層こう、大丈夫なのかな、なんて気にしてしまう。ステージだってパフォーマンス専用なわけではないから、演者のすぐ後ろのカフェテラスの席にも人がおり、そもそもステージの脇にもカメラを抱えたアシスタント?のような人たちがいるという始末で、なかなか演者に集中するという気にもならず、いや大道芸ってそういうものなのだろう。

ステージを降り、客席へ練り歩く。観客の視線を追うに、どうも自分が立っている階段を登ってきているようだけど、螺旋階段になっていたため、見えなかった。「がんばれー!」などと声援が飛ぶ。ステージに戻り、バケツの水を被ったりして、終わった。次はやや陽気な曲で、観客をステージに上げて手をつないで練り歩く。同業者のようなものだろうか、妙に動きにキレがあるご老人が一人いた。

そういえば昔、ペルーの民族音楽を奏でる一座が都内各所を結構頻繁にめぐって演奏していた。新宿で見かけるとき、毎回のように一座のとなりで汗だくで踊っている老人がいたのを思い出した。あれは誰だったのだろう。

演目もいつの間にか終わってしまったようだ。舞台の上で何か話していたようだが、何を話しているのか全く聞こえなかったのは残念。花束などが贈られたあたりで帰路に着いた。見た場所が悪かったこともあり、イマイチでしたと言わざるを得ない。これが新幹線で二時間かけて見に来た、とかだったらきっとがっかりしてしまう。

あのような人生を歩んでいる人は、そら舞台にて死すことも厭わないものなのかもしれないが、着替えに手間取る様子まで見せられてはなんとも。演出なのかもしれないけど。遠目から見ていたから、カメラ持ってうろうろしていた人たちも目立って邪魔だった。近くで見れない時点で帰ればよかったなと。

ブログを認めるにもパフォーマンスの内容が全く印象に残ってない…。

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